雑文録

とりあえず書いたものを置いておく用

◎米津玄師『恋と病熱』PVみたいな雰囲気小説が書きたい

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(注:米津玄師『恋と病熱』そのものではなく南方研究所による公式PVを文字媒体による創作に落とし込むための思考実験ですが後半からようやく本題に入ります)

 

最近、小説を書き進めてしまうのが怖い。脳内に形なきものとして蠢いている構想はその時点では完璧なものであっても、文字として物語の中に落とし込んでしまうと否応なく不完全な面というものが見えてくる。けれど完成しない物語は批判を受けることもないが、それは完璧であるためでなく不完全さも力も存在しない虚無であるからだ。だから結局、作品の出来に悩みながらも書き続けて、駄目だったら倍以上の労力を支払って書き直すか次に移るしかない。それは失敗するかもしれない賭けを続けなければ大局的には負け続けてしまう人生にも似ていて、けれど人生に限らず世間の大凡のことが同じような仕組みになっているのだろう。トライアンドエラー、失敗してしまうかもしれないと考えるよりも、成功するまでに幾度の失敗が必要かと考えた方が気が楽だ。私は少なく見積もって二度の失敗を経験し三年の年月を使い潰したし、自分が二度の失敗程度で成功に辿り着けるかどうかは怪しいものだ。けれど挫折などという言葉は失敗と無縁でなければならず、ただ失敗を積み重ねて高みに至ることを一般に努力と呼ぶ。問題はただ、自らの寿命と成功までに重ねる失敗が要する時間のどちらが長いかというだけのことだ。

さて本題に移るが、雰囲気ばかりで内容のない小説のことを『雰囲気小説』といってこき下ろされることがある。けれどそれは雰囲気に関しては相手に認められているということで、むしろ一定の成功を収めていると言えるのではないだろうか。雰囲気は『キャラクターアニメ(登場人物の描写ばかりで物語のないアニメの蔑称)』などにおけるキャラ性と同様、お高く留まった創作者に蔑ろにされることがあるが、物語性や内包するテーマ、世界観と同様に作品において必要なものである。逆に、その五つの中の二つくらいが上手くできていれば作品としては成功の部類であるように思う(おおよそ一つでアマチュア、二つが上手く出来ればプロ級、三つ以上となると化け物と考えて良い)。そして私は『雰囲気』に秀でた小説が書けない(それ以外が書けるというわけではないが、特にそれが書けない事に今不便を感じている)。

雰囲気というものは極めて多様だ。前向きな雰囲気、頽廃的な雰囲気、エスニックな、牧歌的な、パンクな、ポストモダンにオカルトパンクと何でもあるが、自分がどれを求めているかということを理解すること、そしてそれを書けるようになるのは極めて難しい。今の自分は特定のGL系作品や雑誌アフタヌーンに類する作品の持つ雰囲気である『エモさ』というものに関して辛うじて演出することができるが、それ以外の雰囲気となると判別するのがやっとで自ら書くには理解も技量もまだ足りない。ある程度『エモさ』を描くことができるのは、その感覚を『エモい』と言い表してより『エモい』作品を求めようとする消費者と創作者による文化圏に一定期間属していたからだ。どのような作品がエモいのか、それらの共通点を見出して模倣すること、消費者が『エモい』と評する部分がどのようなものなのかを理解することによって『エモい』作品が書けるようになると思う。それは『高い』という概念を知っているからこそ『高く跳ぼうとする』ことが可能であるのと同じように。

自分は今、米津玄師と南方研究所による『恋と病熱』のPVのような、或いはナンバーガールが映画『害虫』において流した『I don’t know』の音楽と映像のような雰囲気を小説に憑依させたいと思っている。けれどこれは『エモさ』についての自分の理解よりも一段階下にあたる。その2作品が何かしらにおいて高いボルテージを持つことは分かるが『その尺度』を表すための言葉を持たず、また『その尺度』が高いことを善しとする創作界隈や消費者界隈(オタクやファンとも言う)を知らない。探してはいるのだが『尺度』について真摯に向き合っている界隈を見つけることはできなかったのだ。(『この作品が好きな自分』が好きだというだけの似非ファンが多いのは純文学や海外文学等、それを好きであるという事実が何らかのステータスに見られるようなジャンルにおいて多い現象であり、その中から作品を解体して己の求めるエッセンスを啜る求道者的なオタクというのを見つけるのは川底の砂利から砂金を掬いだすほどには難しい)

自分はある種の作品について『刺さる』『破壊力がある』と表現することがある。闇や苦しみを外側のもの、つまり他者のそれを嗜虐として楽しむスプラッタとしてでなく、己の内側にあるそれに踏み込み暴き出し、心の脆い一点を鷲掴みにしてくるような作品のことだ。必ずしも悲劇やグロテスクなものであるとは限らず、むしろ敢えてポップな曲調から着飾ることのない素朴な歌詞で『刺して』くる歌というものを知っている。名もないそれらは負なる事象(マイナス)に美(プラス)を見出すアングラ・サブカルチャーと隣り合わせでありながら対極に位置するものであり、また既存の正しさ(プラス)に歪(マイナス)を見出す類いのアンチ文化とも違い、ただ苦しみ(マイナス)を苦しみ(マイナス)として描くことで誰かの秘した苦しみに寄り添う第三象限的なものだ。どれが正しいということはなく、ただ創作者である限り己の書きたいものを自覚し、そして書きたいものを書くための手段を手に入れなければならないというだけの話だ。イタリア料理と二郎系ラーメンに料理としての優劣を付けてどちらかが消えなければならないという道理はないし、二郎系ラーメンしか作れないならばせめて旨い二郎系ラーメンを作るしかないだろう。私はどちらも好きだが、生憎ケレン味の強くて胃もたれする二郎系ラーメンしか作れない。

 

また話が逸れた。そうそう米津玄師(&南方研究所)『恋と病熱』の話だ。ひたすらに歌詞と音楽、絵面でこちらの心臓辺りを殴ってくる。最初にあのPVを観たのは三年か四年ほど前になるが、未だに作品を妄想する時の基盤に根を張って影響を与えてくる。ただし半年ほど調べた限りではあの種の作品は突然変異的に生まれたものであり、二番手三番手と続けば類型によって消費者も集まり一種の界隈というものが築かれるが、なまじ一作品として有名過ぎるとオタクは数多のファンの中に埋もれがちだ。単体の作品の中から自分が感じた雰囲気を作り出すエッセンスを見つけ出すのは極めて難しい(最大公約数を取れないため)が、足りない材料を嘆くよりも冷蔵庫の中にあるもので料理を作るしかない。だから『恋と病熱』という作品を徹底的に解析することで、そして彼の他の作品との違いを明らかにすることで自らが当該作品で『刺さった』ものの根源を理解し、少しでも近づくしかないだろう。ちなみに自分に音楽関係の知識はなく、また映像や絵画についてもからっきしで、じゃあ自分の畑である小説関係はどうかと言われても大した知識がなく、だから知識も才能も今から積み上げていくしかない。これは豊富な知識を持つ人間の解説授業でも、作品愛を持つファンによるラブトークでもなく、ただひたすらに技術の盗用を重ね、他人の武器を奪うことによってのみ戦える模倣者が新たに一つの技術を盗もうとする過程を書き記した記録に過ぎないことは記憶に留めておいて欲しい。

ミル貝(wikipedia)で彼の影響元を調べたところの3アーティスト(アジカンバンプラッド)については自分も割と好きで、また往年のニコニコ動画についても結構入り浸っていた(『ハチ』としての作品も率直に言って大好きである)。そして続く文章に“歌詞の世界観に文学作品からの影響を公言しており[37]、現在までに宮沢賢治の「恋と病熱(詩集『春と修羅収録)』」、井伏鱒二の「山椒魚」、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」をモチーフにした曲を発表している。”……恋と病熱元ネタあるの?マジで?マジかぁ……知らなかった……(春と修羅も別アーティストが曲名にしてましたね、あれも好きです)斯くも無知とは罪なるかな、ならば知ることは罰になりましょうや?知りません、次。それはそれとして『ニコニコやFLASH文化で組み上げられた感性によって文学作品をプリズム的に変化させる』というのは質感の出し方の一つであるように思う。

この映像に関して、『ストーリー』はあまり無い。いや解釈好きにとっては存在するのかもしれないけど、自分がないと思えば自分にとっては無いのだ。自分が感じ取れないものなら、自分と同じような受け取り手は感じ取ることができず、そして基本的に自分と似たような人間に向けて作品は作られる。ただ曖昧なストーリーラインと膨大な質量で殴りつけてくる雰囲気しか存在せず、そしてそれだけが存在すればMVとしては十全に過ぎる。これはハチ氏が最初に『音楽に対する見方が変わった』と言ったらしいFLASH文化にかなり通じるものがある(良いよねガラクタノカミサマ私も大好きだ!)基本的にあれは既存の音楽(音ゲーやロックバンド)にFLASH職人が映像を後付けしているもので、アルバムカバーとの雰囲気の違いからして『恋と病熱』のMVも同じように作られたと考えて良いと思う。でも今重要なのは製作工程そのものでなく、『あの雰囲気』が何処から生まれたかだ。そして『雰囲気』なるものが何から生まれるか?それは『雰囲気以外を生み出している全てのもの』を除いて残っているものだろう。それは映像や文章の端々に散らしたガジェット(小道具)と会話による台詞回し、映像作品なら絵柄や光源(画像にかけるフィルター)にBGMもそうだが『固定の音楽に映像を付ける』MVでの雰囲気なため音楽は固定、そして映像内に会話も存在しない。残されているのは絵柄と光源(小説における筆致の部分)、そして物質的なガジェットであり、加えて言うならMVとしての絵の動き方であるだろう。

ここから書いている文章の書かれた時系列が混濁するため、『①インタビューからの製作者の解析』『②絵柄と光源、物質的なガジェットとMVとしての絵の動きについて』の二つのアプローチに分けて解析していく。そして絶対に忘れてはいけないこととして、私が求めるのは『作者が込めた意味』ではなく『見た人が受け取る印象』である。必要なのは作品に対する論理的な考察ではなく、如何にしてそれが自分の感情を動かしたかという技法の解析だ。

 

①インタビューからの製作者の解析(②の『巨大な破壊』についての文章から繋がりますが、同時に②の文章自体が①を前提にして進められるため此方を先に置きます)

 

『恋と病熱』が収録されている『diorama』のアルバムジャケット及びクロスフェードのMV自体をデザインしたのはハチ(米津)氏自身だが、『恋と病熱』MVの雰囲気は他からするとむしろ異質なものに見える。動画として『南方研究所』による合作であるとは思うが、pixiv見る限りだと南方研究所の中でも『うつした』氏のものが一番近いように思われる。さて彼のTwitterを漁る……あっ違うわ『研究日誌』なる公式ブログにタスク氏がMV作ったよって書いてる(絵に関しても感性からっきしである)。さて気を取り直してタスク氏のTwitterを漁る。MHWやってる……(良いよね今作は弓と棒と軽弩を使ってるけど非常に楽しいです)基本的にTwitterで広報以外に創作関連については呟かない人らしいということは分かりました(Twitterはあくまで誰にでも見える個人の日記帳なので他人がどうこう言う筋合いはなく、自分はその盗掘者に過ぎないわけですから金目のものが出てこなくても文句を言える立場ではありません)ただゲーム好きってのと実写での動画とかも手掛ける方ってのだけは分かりました。あと渡辺タスクで直接google検索すると別の人が先に出る……あっあっ待ってインタビュー有る、作品がどうやって生まれたかについて聞いてくれるインタビュー私好き!デジタル雑誌で公開終了してる部分も多かったですが、残った部分をサルベージして以下引用

“インタビュー ――大切なのはシステマティックであること

◆創作活動の中で、心がけていること、大切にしていることは?:システマティックであること

◆尊敬しているクリエイター、影響を受けたクリエイターは?:平沢進

◆今、夢中になっているもの、気になっているものは?:プロテイン(Champion)

◆ハチ氏との南方研究所制作のPVが注目されていますが、動画のアイデアはどのようにして出すのでしょうか?

アニメーションに関しては楽曲が付くので、当然ですがそこから考えます”

そして影響を受けた本については『熊の場所』『ILLUSION ACTS LIKE MAGIC』『』『ハサミ男』『コズミック』……真ん中の一つの文字がどうしても判別できないのが心苦しい、とはいえ大凡の表紙は分かってるのでそのうち巡り合うだろう(追記:心優しい協力者のお陰で『クリスマステロル』と判明しました、メフィスト賞作家が多い)。『システマティック』か……まあ平沢進氏の作品と上記五冊(四冊)から『システマティックさ』の最大公約数を抜き出して模倣するのが手っ取り早いでしょう。

そして『歌詞からPVを作る』というのは当たり前でありながら、とても大きな収穫であると云えましょう。歌詞とは往々にして楽曲の一要素でありながらも一種の心の叫びであり、一部の小説家は『己の内包するテーマから小説を作る』ということ(私もそうだ)と共通点が見出せる。胸の内を叫ぶ特定の一節が物語よりも先にあり、それを基に物語を起こす。それに際して大まかなストーリーラインと物質的ガジェットを設定し、一連の映像もしくは小説を描き起こす。

 

②絵柄と光源、物質的なガジェットとMVとしての絵の動きについて。

 

何よりも映像でフォーカスされるのは『人』であり、作中において二人だけ登場する顔のある人間にカメラを寄せてMVは展開される。大まかに分けて出会う前と、出会った瞬間、一緒に居た時と、離別の瞬間と、別れた後の時間軸に分けて話が進むが、最初の30秒ほどで『出会った時』の動的なシーンを一気に出し切って、その後2分目辺りまでは『出会うまでの二人』らしき個別のシーンを長回しで切り替えて撮っている。冒頭部において映像フィルムらしきエフェクトと上映するような『回想する作中作』という扱いになっており、視点主にとって一番印象的で動的なシーンである『出会いの瞬間』を冒頭に叩き込むことで視聴者を映像内に引き込めるのは『記憶の回想』だからこそ可能な芸当である(これは何度か見返して時系列的に理解できることではあるが、一度目の視聴時のインパクトを作中の矛盾無しに稼ぐ点において決して無駄ではない)。そこから『一緒に居た時の二人』の一幕を何枚かの絵によって描写するが何やら不穏な要素(『顔のない人間』)が混じっており30秒ほどでクライマックスとなる『離別の時』が描かれ後奏で『別れた後』が描写される。改めて時間配分に気を付けながら見直したことで『出会うまでの二人(即ち個別の描写)』と『離別の時』の時間的な比率の高さに気付かされ、このPVがあくまで『二人で居る時』ではなく『離別』の瞬間にこそ焦点を当てることで斯様な雰囲気を出していることが分かる。にも関わらず『二人で居る時』のインパクトがそれ以外に劣らず濃いものとなっているのは、冒頭と中盤において小出しにされる映像が二人の過ごした時間を少ない情報量で最大限に伝えるものだからだと考えられる。

最初の方において『PVには物語がない』と言っていたが、『脈絡がない』が正しいだろう。この映像において物語は『どうなったか』についての連続によって構成され、『どうしてそうなったか』についての説明は基本的に為されない。それが無駄のない雰囲気の演出に繋がっておりPVとしての正解であると同時に、PVの雰囲気を小説に落とし込もうとしている自分にとって必ず踏まえなければならない点でもある。小説に『歌詞』はあれど『曲』はなく、そして曲は大凡『雰囲気』という要素にとって極めて重要である。元より小説とは製作側も受け取る側も脳の働きに依存する比率が最も高い創作媒体であり、旋律の代わりとなるものは読者の受け取る情報に仕込むべき起伏と、伏線回収の技巧などストーリー的な脈絡であり、逆にそれらを満たせない限り文字だけの媒体で漫画やアニメを越えることはできないだろう。以下、映像内で取り扱われているガジェットについて。

 

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・『巨大な破壊』

南方研究所がPVを提供した『DIARY』という作品においてもこれがある。そして往年のFLASH作品などこれの塊のようなものだ。ハチ氏の手掛けるパンダヒーローやドーナツホール等のPVとは完全に別系統の『恋と病熱』に類似したもので、恐らくは同じ人がメインでやっている。(⇒①の冒頭部はここから接続します)元であるFLASH作品においてこれらの『巨大な破壊』は基本的に映像の派手さのためだけに使われたが、『恋と病熱』においては内面の不可逆的な変化に『破壊』という事象を添わせる形で、『DIARY』においては生における困難と苦痛に添わせることで派手さ自体に意味を与えている。

・『特殊な建造物と存在しない街』

『恋と病熱』のMVでは夕暮れの工場地帯が主舞台となっており、その他においても横断歩道や錆びたバス等『現代寄りの廃れた雰囲気』が前面に押し出されている。そして街の住人らしきものとして描かれる『顔のない人』は人間からは外れた造形であり凡そ好意を持ちづらい何者かとして描かれ、離別する二人のうちの『消える側の人間』がこれに近いもの(黒塗りのロボット?)に成り果てたりする。DIARYにおいても成り果てはしないが似た者が存在し、蛙だったりもする。

“好きなものが少なくなる 嫌いなものが沢山増えた”から始まる歌詞からして『成り果て』る要因は一番平たく言って『経時』だが(狭義の言い方だと『老い』だったり成り果てるものは『大人』だったりする)、重要なのはそれが歌詞から生み出されたものであることだ。ただ『好きなことが少なくなり 嫌いなことが沢山増えた』という感覚的な、そして共感するものの多いテーマから、その要点を失わぬままに視覚的なインパクトを底上げするために用いられている技法について次のガジェットを用いて解析する。

・『動物の被り物』

単純な事実として、日常において動物の被り物をした人間は居ない。PAYDAYやホットラインマイアミなんかにも動物の被り物はあるが文脈がかなり違うので取りあえず置いとく。DIARYにおいては『(経時による)避けがたい変化』を人外になぞらえているとも考えられるし、また『顔のない人間』と同じ『個人を判別できない⇔無個性な大人』と捉えることも可能であるが、ここで行われていることは『無個性な大人⇒(個人を判別できないという印象⇒)個人を判別できない着ぐるみ/顔のない人間』という置換である。『読者に与える印象/共通認識として抱かれる文脈』をフックにして、戯画的に『どうなったか』という物語の振れ幅を拡大する。これが文学的で抒情的な、悪く言えば話の起伏に乏しくなりがちなストーリーラインに良い意味での漫画チックな派手さと非日常性を付け加えることに成功しており、特段に重要な技法であると言えるだろう。(歌詞のメッセージを表すには上記では言葉足らずだろうが、単純な言葉で完璧に表現できるなら歌も小説も必要ない)

・『映像制作/執筆活動』

重ねて言うが、これは製作者の意図を読み取る国語の問題ではない。それが受け取り手たる自分に与えた影響を理解し、それを自らの創作にも活かすための思索である。まず自分がこの映像を見た最初の時に感じたことを思い返すと、それは『青春』であり『二人の時間』そのものとして受け取ったように思う。『映像制作』が軸となることで二人の関係を恋愛と断ずることなく、そして同時に不可逆に別れへと突き進んでいく青春の一幕として受け取らせたように感じた(何が正しいかではなく、どう感じさせられたかが重要だ)。そして彼らが離別した後に思い出の残骸として、そして失われた後も決して消えない記憶として映像のフィルムが残り、またメタ的な観点からも冒頭の『出会った瞬間』の早回しの映像を無理なく展開することを可能にしている。

 

ちなみに自分が前の失敗において見つけ出した最大の課題とは『思考のままに書くと字数が激増する』という問題の解消なのだが、現時点で八千字書いているようだ。字数が多ければ多いほど良いのは読書感想文と大学のレポートくらいで、読む方は疲れるから読みたくなくなるし書く方は終盤疲れて雑な文章になるし本当に良いことがないのである。この怪文書だって前半ほとんど意味のない駄文だし結論なんて

・歌詞(小説におけるテーマ部分)に乗せられた『一般に共感されるような感情(今作だと大人になることについて)』から『無個性な大人⇒(個人を判別できないという印象⇒)顔のないロボット的な人』と置換することでありがちな出来事に物語的なインパクトを生み出す。

『どうなったか』という純粋な出来事についてのみ描くことで『どうしてそうなったのか』という脈絡を破棄して雰囲気を前面に押し出しているが、これを小説でそのまま使うことはできない。(ただし『どうなったか』について焦点を当てること自体は参考にすべき)

・物語において焦点を当てる出来事(今回だと離別の部分)について尺を長く取り、そうでない部分についてはダイジェスト的に絵になる一幕を連ねることで『どうなったか』という簡単なストーリーラインを確保するに留めることで焦点部分の雰囲気を作品に活かす。

くらいのものであり、この文を短縮するためには結論部分を中心にその周辺の関係ない部分を削っていけばいいんだけど書き手からすると二度手間であり、ならどうにかして一度目の文章を書く時点で無駄が生まれないように(或いは少なくなるように)出来ないものだろうか、というとこまで今回の駄文によって自分の文章の手癖を省みることが出来たのは収穫でしたね(最終的な結論)