雑文録

とりあえず書いたものを置いておく用

掌編『年甲斐もなく金魚を』 書きかけ

舞台も登場人物の生い立ちも詰め切らないまま、大筋とシチュエーションありきで突発的に書き始めた掌編。

このまま書き上げるか長編に組み込むか、今後どう使うかは分からないけど、前半部分を知り合いに読んでもらうことを考えて書き終えた前半部分を公開。

 

――『年甲斐にもなく金魚を』――

 

真夏のうだるような熱気が連日の雨に押し流され、湿っぽい残暑とアスファルトに降った雨の残り香が漂う日暮れのことだった。家の外から響く囃子の音に引き寄せられて街路に出てみると、普段人通りもまばらな道に屋台が立ち並び、所狭しと人が行き交っていた。決して季節外れではないがベッドタウン(※)の住宅街といった立地のこの場所で、今時まだ祭りをやっていることに驚いて立ち呆けていると、背後から聞き覚えのある声があった。

 

「●●くんは越してきてから半年だったかな。毎年この時期に小さなお祭りをやるんよ」

 

と話しかけてきたのは近所に住む◆◆さんだ。年甲斐にもなく金魚が泳ぐビニール袋のひもを手首に吊って、リンゴ飴を同じ側の手に持っている。年甲斐にもなく、といっても年は三十路手前のように見えるだけで本人に聞いたわけではなく、近くの居酒屋でたまに一人きりで飲んでいるところを見るけれど、何の仕事をしているのか何をして生きているのかも定かではない、飄々とした掴みどころの無さだけが特徴のような人だった。

 

◆◆さんは普段ジーンズとTシャツ、カッターシャツと膝までのチノパンといった、今の僕の出で立ちと大差ない格好で、伸ばしっぱなしの髪が顔や口にかかるのを気にする様子もなく、たまにスーパーや近くの公園などをふらふら彷徨っている。そんな◆◆さんが珍しく浴衣を着付けてリンゴ飴と金魚の袋を片手に、どこか浮足立った様子で話しかけてくる様にときめかなかったと言えば嘘になる。

 

「その金魚、一人で掬ってきたんですか」

 

という問いの、誰かと一緒に来ているのか――友達や恋人が居るのか、と探る下心に気付いているのか、◆◆さんは「ふふん、●●くんも“この歳になってお祭りだなんて”とか思ってんのかい?」とこちらの質問には答えず、からかうように笑ってみせる。

 

「良いから、一緒に来なって。どうせ●●くんのことだから、放っといたら家でゴロゴロしているだけだろう?」と手首を掴んでくる柔らかい指の感触は、けれど掴まれることは許可しないと言うように、こちらが歩き出した途端にするりと抜け落ちてしまう。掴まれていた手を所在なく浮かせたまま、◆◆さんがぶらぶらと歩いてくのに付いていくことになった。

 

どちらかというと冷たく硬質な印象があったベッドタウンの夜の道が、今日だけは暖色の行燈と夜店の光に照らされて陽気で大らかな空気を漂わせている。一夜限りで知らない土地となった住宅街に困惑する僕を連れて、◆◆さんが向かったのはテン、テン、トンと気の抜けたような太鼓の鳴る盆踊りの会場だった。「これ、持っておいてよ」と言って、了承も取らずに僕の手に押し付けられたのは、金魚の袋や林檎飴といった◆◆さんの持ち物だ。なんのことはない、ただ盆踊りをしている間の荷物番が欲しかったのだと、僕はむしろ安心して広場の縁に座り込んで先程買ったビールの缶を開けた。

 

ぼっぼっ、と遠くから響く音につられて櫓[やぐら]を見上げた先で、高層ビルの向こうで咲いた花火が闇の中から四角い輪郭を描き出す。◆◆さんはといえば、うろ覚えの振り付けで盆踊りをしている人たちに混じっていて、僕の片手には彼女に預けられた舐めかけの林檎飴が握られている。僕は花も団子も、つまり祭りの景色や屋台の食べ物を楽しむでなく、食べかけの林檎飴をちらちらと見ながらビールを飲んで、腕にかけた金魚の泳ぐビニール袋を眺めながら◆◆さんについての奇妙で少しばかり不名誉な噂についても思い出していた。

 

◆◆さんは中古の家を買い取ったか借家として住んでいるのだが、その庭には十数匹の金魚が泳いでいる。しかし◆◆さんは金魚に餌をやらず、代わりに金魚の世話をしてもらうという名目で若い男性たちを家に上げている、という噂だ。金魚の寿命は十年程度で、時たま寿命や病気で死んだり外から来た鳥や猫に食べられていくものも居るが、夏祭りのたびに金魚は補充されるので居なくなることはない。この噂は◆◆さんが曖昧な関係を持っている男たちも、金魚たちと同様ひっきりなしに取り換えられているということを暗に言っているのだ。それは◆◆さんの普段の色気のない服装と振る舞いからは想像できず、鼻で笑って今の今まで忘れていたような噂だった。

 

「◆◆くんも踊ってきたら?荷物は見といてあげるから」

 

と、満足行くまで踊り終えたらしい◆◆さんが少し上気した顔で戻ってくる。

 

「いいですよ、こんな暑い日に酒まで飲んでから踊ったら汗だくになります。一人で盆踊りなんかに行こうと思う◆◆さんの気が知れない」

「でも、意外と悪くはないでしょ?」

 

踊りではだけた◆◆さんの胸元の、空色の浴衣と白い肌の隙間に見える黒いレース地に視線が吸い寄せられる。そんな無意識での仕草を見透かしたようなタイミングで声をかけられ、狼狽えた僕の様子を見ながら◆◆さんはカラカラと笑う。「分かっててやってたんですか、不純ですよ」と、年下であることを助平心の免罪符にしようとする僕の卑怯な言葉に、◆◆さんは「不純も何も、自分が楽しめることを楽しいと思えばいいでしょ」と思わぬ答えを返してきた。

 

「考えてみなよ●●くん、君が今までお祭りを“楽しくない”と思った記憶の中に、行きたくて行ったお祭りは何回ある?」

「家族と行ったことしか無いですけど、行きたくもない時にお祭りになんて……」

 

と言いかけて、僕は言葉に詰まってしまう。それを見透かしたように◆◆さんは言った。

 

「やれ家族サービスだなんだのと、親の社会的な体面だとか自己満足のために無理やり行きたくもない祭りに引っ張り出されて、アルバムに残したり暑中見舞いのための写真を撮るために長い時間立ち止まらされる。構って欲しい時には仕事だなんだと邪見にして、そうでない時は勉強だ世間体のための外出だと好き勝手に扱われる。楽しいわけないだろ?」

「……勘弁してくださいよ」

 

僕は辛うじて、そう言うことができた。かつて居酒屋で一緒に居合わせた時に、酒に吞まれて喋らなくても良い過去を喋ってしまったのは手痛い失敗だった。酔いつぶれた時に介抱してくれたのも◆◆さんだから、その時の話を蒸し返すなと強気に怒ることもできない。◆◆さんにとって自分は『教育と社会的体面に厳しい両親の元でそこそこ品行方正に育ち、そこそこ彼らのお眼鏡に適う遠方の大学に受かったことで、負債のない資金的援助を受けつつ家族から逃げ出してこれた学生』という出自を丸裸にされてしまったのだが、一方で自分から見た◆◆さんは相変わらず全てが謎に包まれた年上の女性なのだ。

 

「林檎飴、食べて良かったのに。一人だと舐めても舐めても林檎が出てこないからさ」

 

預けていた荷物を受け取った◆◆さんは、ぱり、ぱり、と林檎飴の上半分にある飴が広がった部分を齧ってから「ほら、飽きてきちゃったから●●くん食べてくれない?」と僕に残りの林檎飴を差し出した。その時に◆◆さんは僕を想い通りにできると思っているのではなく、僕が何をしようと別にどうでも良いのだと直感的に分かってしまった。明確な目的や欲求があって誘惑しているのではなく、ただ池の水面に石を放り込むくらいの興味で僕を試しているのだ。

 

きっと預けられた飴を舐めていようが、差し出された林檎飴を叩き落そうが、それ以上のことなど彼女は今までに何度も経験してきて、それに比べれば僕程度の決心で取りうる行動が彼女の気持ちを変えることはできない。僕にとって大いに悩ましい選択は、彼女にとってどちらでも良い些末事であるのだ。その事実が無性に腹立たしくなって、僕は再度「要らないですから」と繰り返す。◆◆さんは「そう」と興味なさげに返事した後、歯を立てて林檎飴をばりばりと嚙み砕いてしまった。こういうところだ、と僕は思った。